白骨温泉の歴史と
齋藤旅館の歴史について
お伝えいたします。
鎌倉時代、北陸地方と幕府を結ぶ最短コースとして、この地に鎌倉往還が開かれていました。この頃から白骨には湯が湧いていたと言われることから、その歴史は四百年以上にわたることになります。
湯屋ができたのは江戸時代に入ってからで、以来、明治・大正・昭和と山間のひなびた湯治場として栄えてきました。
北陸地方から当時の政治の中心であった鎌倉を目指す鎌倉往還は、その後も飛騨街道として元禄十四年に作られた「元禄国絵図」に登場するなど、信濃と飛騨を結ぶ道として定着していたことを窺わせます。白骨には、この鎌倉往還の頃から湯が湧いていたと言われ、ここを往来する旅人が旅の中休みに湯浴みしていたかもしれません。
やがて戦国の世になると乗鞍岳の麓に、武田信玄によって多樋銀山が開発されました。銀山とは言っても主鉱は鉛でしたが、鉄砲が普及し始めた当時は、貴重な軍需物資でした。
ここでは鉛の精錬まで行われ、盛時には、かなりの町屋をなしていたと言われています。銀山から峠を一つ越えて一里半の道のりの白骨温泉では、銀山の傷病者の療養が行われていたことでしょう。
そして白骨に初めて本格的な湯屋を作り、営業を始めたのは、元文三年(一七三八年)に松本藩から「白船御礼」が下された湯元齋藤旅館の祖先にあたる、大野川村の庄屋であると言われています。
ここの地名は、地元に伝わる古文書によると「白船」「白舟」とあります。これは栃の大木を六尺ほどに縛って、丸木船様に彫った「フネ」を称するものを輸送に用いていたところ、その内側に温泉の石灰分が白く結晶したところから、それを「シラフネ」と呼んだのが由来だと言われています。明治になり吉田東吾の「大日本地名辞書」が発行されると、そこには「白骨温泉、白船の湯と言う。」とあります。
おそらくこれが白骨の呼称の始まりであったのでしょう。その後、「白骨」の名を広く一般に知らしめたのが、大正二年九月より、新聞紙上に連載の始まった、中里介山の小説「大菩薩峠」でした。以来、地元でも「シラフネ」と呼ぶものが少なくなり、いつしか白骨の名が定着し今日にいたりました。
中里介山先生二十九歳の大正二年(一九一三年) 九月から都新聞に「大菩薩峠」の連載が始まり、同十四年一月「無名の巻」からは東京日日新聞、大阪毎日新聞に連載が続きました。そして小説は「他生の巻」で白骨を舞台に物語が、展開するのでした。
その中に綿々と描かれる白骨の場面は、介山先生が大正十四年八月二日にわずか一泊で構想を得たものです。
その時、宿泊されたのが湯元齋藤旅館です。大菩薩峠の一説に、「殊に、龍之介はここへ着くと、まず第一に、『これから充分眠れる』と言う感じで安心しました。」とあります。「他生の巻」における机龍之介の姿は、家に滞在中の先生の姿を彷仏とさせるようだ。と先代は申しておりました。
その後介山先生は亡くなられる前年の昭和十七年十月十一日に再び訪れ、一週間ほど滞在されました。没後十年を迎えた昭和二十九年七月、東京作家クラブの提案で、白骨温泉旅館組合と諮って文学碑が建立されました。
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